三十株から山林一万町歩へ

さて話は横にそれたようであるが、元へ戻って、私の「財産告白」をつづけると、天引貯金によって相当にまとまることになった資金で、最初にまず、ブレンタノ博士の仰せに従って日本鉄道株(上野青森間――私鉄時代)を買入れた。

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たしかに十二円五十銭(現在の価格に換算すると約四万六千円)払込みのもの三十株だったと記憶するが、それが間もなく三百株にふえた時、払込みの二倍半で政府買上げとなった。年々一割の配当を受けつつ私の貯金の一部が早くもここに、三万七千五百円(現在の価格に換算すると約一億四千万円)となったわけである。明治時代の三万何千円はとても大したものであった。これだけでまず一財産ということができた。しかもその元はといえば僅かな俸給の四分の一天引である。私は特にここで貯金を馬鹿にしている一部の人々にこのことを強調したい。――国家の敗戦とそれに伴うインフレーションといった大変事さえなければ、やはり貯金の力は絶対偉大である。

つづいて私は、その金で、今度は秩父の山奥の山林買収に着手した。これはブレンタノ博士の教えによるのでもあり、また私の専攻学科にも関係が深かったからでもある。

当時秩父の山奥(中津川)は国内においても稀にみる天然美林であったが、鉄道からは遠く、道路もほとんど皆無で、その開発に手がなく、税金ばかりかかって只でも貰い手がないというほどの有様であった。私は天下のこの大財宝がこのまま朽ち果てるわけはない。また朽ち果てしむべきではないと考え、売手のあるに従って伝い値で買い込むことにした。伝い値といっても全く只のようなもので、一町歩(約三千坪)がタッタ四円(現在の価格に換算すると約一万五千円)前後、それも一々正式に実測することができないので、一つの山に登って、反対側の山を指差し、あの谷からあの谷まで全部で何十町歩、何百町歩といったやり方で、その土地立木全部を台帳面積いくらでと買い取ったのである。中には買手が来たからといって、全村挙(こぞ)ってその持ち山を私に売りつけに来たことさえあった。

何れにしても、数万円の資金が用意されているところへ、一町歩タッタ四円というのであるから、私はほとんど片っぱしからそれを買い入れることができた。しまいには三井、三菱といった有力な競争者が現れたが、そんな頃には私はもう八千町歩(約二千四百万坪)からの山林を自分のものとしていたのである。――その後にも買増して約一万町歩(約三千万坪)にもなった。

ところへ、日露戦争後の好景気時代がやって来た。木材の思わぬ大値上りで、しかも漸次(ぜんじ)搬出の便宜もととのえられてきた。そこで、その立木だけを一町歩二百八十円ずつで一部を売ることにした。――まさに買値の七十倍である――これで昨日までの素寒貧(すかんぴん)本多が一躍(いちやく)成金になったというわけ。ある年のごときは年収二十八万円(現在の価格に換算すると約十億円)で、当時における淀橋(よどばし)(東京都新宿区内の地区)税務署管内のナンバーワンにまで出世(?)したのである。

当時はすでに、私はなお他にもいろいろの財産というべきものをもつに至っていたが、この山林の立木を時価でみただけでも二百八十万円(現在の価格に換算すると約百億円)、それに何やかやで、実は我ながら驚かされるまでに大したことになってしまった。四分の一天引き生活を継続しても、まだ金の使いようがなくて困るという有様で、十数年前のゴマシオ時代から考えても、また今日のホルモン漬時代から考えても、まったく夢のような豪華生活を送ったのである。それは主として学術研究兼視察の海外旅行によってであるが、その海外旅行と私費で今までに十九回も繰り返しえたのもまた、四分の一天引きに始まるこの投資財産のおかげであったのだ。

しかし、物事は程度をすぎると必ずそこに余弊(よへい)が生じてくる。はじめは「本多の財産」であった私の財産が、ここに至ると逆に私をとりこにして、「財産の本多」といった主客の顛倒(てんとう)を起しそうになった。

そこで、私はハッと気付くところがあり、財産を作る問題の次は、財産を処分する問題だと考え始めたのである。

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