さて話は本筋へ戻ろう。
私は少年時代から学生時代にかけて、ひどい貧乏生活をつづけてきた。そうして、貧乏なるが故に深刻な苦痛と堪(た)えがたい屈辱(くつじょく)をなめさせられてきた。そこでまず、なんとしてもこの貧乏生活から脱却しなければ、精神の独立も生活の独立も覚束(おぼつか)ないと考えた。
本多静六の驚異の人生哲学を詳しく学ぶ
明治二十五年ドイツ留学から帰って、東京大学の農学部助教授になったのが、私の満二十五才の時である。これが月給の取り初めであるが、奏任(そうにん)官の年棒八百円(現在の価格に換算すると約三百万円)というのであった。この八百円は製艦費として一割を引かれ、正味の手取りが七百二十円(現在の価格に換算すると約二百七十万円)、月割にして六十円(現在の価格に換算すると約二十二万円)ばかりであった。その中からさらに恩給基金等の控除があって、本当の月給は五十八円(現在の価格に換算すると約二十一万三千円)ほどになる。
当時すでに私は一家を構えていたが、まずこれだけあれば、大学教官としての体面を保つ生活は十分とされた。普通に暮していけば、まあ一パイ一パイというところであった。しかし、いけないことには、静六が外国から帰って大変な月給取りにでもなったと早呑込(はやのみこ)みしてか、にわかに寄食者がふえ、全家族九人を数えるまでになった。いかに物価の安い頃とはいえ、これではどうにも動きがつかない。
それでも、旧幕臣の娘だった昔気質の義母などは、いっこう平気で、私の大学就任を士分の扶持(ふち)取りになったかのように考え、いくら使っても一生お上からこれだけは頂けるからいいじゃないかといっていた。私は月給取りと知行取りとはちがう、知行は家にくれていたものだが、月給は私の勤務に対してくれるものである、私が勤められなくなれば、もう一文の支給もなくなると一所懸命に説明を試みても、当人はなかなか呑み込めぬ有様であった。
こういった同勢九人を抱えての私は、これではいつまでたっても貧乏から脱けられない、貧乏を征服するには、まず貧乏をこちらから進んでやっつけなければならぬと考えた。貧乏に強いられてやむを得ず生活をつめるのではなく、自発的、積極的に勤倹貯蓄をつとめて、逆に貧乏を圧倒するのでなければならぬと考えた。
そこで断然決意して実行に移ったのが、本多式「四分の一天引貯金法」である。苦しい苦しいで普通の生活をつづけて、それでもいくらか残ったら……と望みをかけていては、金輪際(こんりんざい)余裕の出てこようはずはない。貧乏脱出にそんな手温(てぬる)いことではとうてい駄目である。いくらでもいい、収入があった時、容赦なくまずその四分の一を天引きにして貯金してしまう。そうして、その余(あまり)の四分の三で、いっそう苦しい生活を覚悟の上で押し通すことである。これにはもちろん、大いなる決意と勇気が必要である。しかも、それをあえて私は実行したのである。
すなわち、一ヶ月五十八円(現在の価格に換算すると約二十一万三千円)の月給袋から、いきなり四分の一の十四円五十銭也(現在の価格に換算すると約五万三千円)を引き抜いて貯金してしまう。そうして、その残りの四十三円五十銭(現在の価格に換算すると約十六万円)で一家九人の生活をつづけることにしたのである。
この一ヶ月十四円五十銭(現在の価格に換算すると約五万三千円)の天引が、後に数百万円(現在の価格に換算すると約百億円前後)の資産を積む第一歩となったのだから、われながら大いにおどろく次第である。
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